命どぅ宝(ぬちどぅたから)

PSOのお友達が実家に戻っているときにこんなメールをくれました。


「らべさんが命どうやら言うのは<命どぅ宝>だからか?(ぇ」


・・・まあ、沖縄にいたらこの言葉は当たり前なんですけどね。どこでもそうですが(笑)。彼に宛てたお返事は、こんなものでした。実家にいながらにして、ゲームの世界の人ともお話しできる。だから、やめられないのかも。以下はアーティスト・新垣 勉さんの言葉(引用文です)。



「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」=「命こそ宝」


このアルバムは私のルーツである沖縄に立ち返り、そこから命の大切さや平和の尊さを歌った作品です。


今年は戦後60年という節目の年ですが、一方で戦争体験の風化も叫ばれています。戦争は確かに巨大な現象です。
しかし、私たちにとって今、必要なことは、その時その場所で、泣き笑い愛し合い暮らしていた一人ひとりの人間が、
戦争について何を想い何を感じ生きていたか、その心の内を知ること、想像することではないでしょうか。


私は一人の歌い手として小さな存在ですが、音楽を通じこのことを少しづづでも伝えていきたいと思っています。


新垣 勉



こんな言葉もあるとおりで、そうですね。私は一応年端は10あまりあなた方より上ですが、心はまだまだ童心ありまくりなので(笑)そんなに違和感ないと思いますけど、こういったところはやはり、両親も年を重ねてきているということもあり、多少なりは重んじるようになりました。ここにいた頃は先祖崇拝もあまり重要視していなかったんですけどね。


それはさておき、やはり命を授かったということは、その内容がどうであれ、あなたにこの世界で生きてもらいたいという(神?の)お告げなりがあって生まれると思うんですよね。そしてそれを手塩にかけて育ててくれる家族や親族、お友達etc。人の支えがあって生きられる。だから、粗末にしないで、と私からもいうわけです。今回帰省して、よりそれを実感しました。みんな大変なんだな、と。


祖母がそろそろ年齢的にも体力的にも弱ってきたかなという節目にあたり、苦労話もいろいろ聞けました。生きている以上、投げやりになることもあるかもしれないけど。生きる目的が云々じゃない。わからないならわからないなりに、日々を懸命に生きてみましょう。懸命でなくても普通でもいいから。ただ、何となく過ごす、ばかりだからそういう思考になったりもするんじゃないかなと。


それについてわたしからどうのこうの言及する問題じゃないし、あなたが考える問題でしょうが、相棒さんだっているんだし、ほかのお友達だって。彼女だってそうですから。沖縄はそういったところ、寛大でありながら温かいのです。だから、投げやりになっているのをみていると、どうしてもなだめたくなるんですよね。沖縄の人=うちなーんちゅ は、生活レベルは低いといわれても、底なしに明るいのです。


なんくるなるさぁ~=どうにかなるさ、の精神が吉と出るか凶と出るかはわからないですよ。でもね、明日もまたがんばろう、という意志があるのとないのとでは大きな差になってくると思います。勉強できればいいんじゃなくて、生きようとする力を強く、誇らしく、もってほしいかな。そこまでできなくてもいいから、お友達、両親、支えてくれる人に感謝をして、明日もまたがんばりましょ。粗末にしないで、ひたむきに、それでいてけなげに、周りに心配をかけないで生きること。それこそが「宝」なのだと、私は思うのですよ。相手を思いやる心、尊ぶ心、慈しむ心があれば、きっとできるはずです。


遠く離れた、北の大地から思い続けます。
南の島へと。




・・・といった感じで、鬱病になったりならなかったりの瀬戸際を見つめることは、なかなか難しいものです。心がありながら、ないようで。自分を責めがちになってしまう。私はそこまで立派に生きられているわけではありませんが、人の役に立ちたいという思いは人一倍あります。だから、自分が壊れても守りたいと思うのでしょう。


力がないのに蜂の巣をつつくようなまねをしているように、傍目からみたらそうかもしれないです。無駄なあがきをと。でも、後悔はしたくないから。やれることはやってみたいんです。いつかは、その無駄が花開くこともあるでしょうから。私はそれを信じて、今日も生きています。まだ1万日も生きていないかもしれないけど、一日一日は、確実に体に刻まれている。それくらいは、誇りに思いたいですね(^-^)/


2006年8月31日 23:59 | 投稿者:Lavendy

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